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エッセイ

それぞれの風景 「母のお説教」

 A子さんは、休みの日になると、ご主人と幼稚園児の娘さんと一緒に家族で教会へ参拝に来る。娘さんは、見よう見真似で「あしきをはらうて」とおつとめをする。「よくできたね、教祖が喜んでおられるよ」と頭を撫でると、娘さんは誇らしげに、そして嬉しそうに笑顔で応える。この家族はこうして教会へ通って来るが、特に事情、身上の悩みを抱えているわけではない。
 そんなA子さんは、私にこんなことを話してくれたことがある。「数年前に出直した母に『雨傘信仰はだめだよ』とよく言われました」。彼女は就職して教会から足が遠のいたことを振り返って、「あなたは困った時、お願いがある時だけ神様に手を合わせるのね。それは雨が降った時だけ傘を差すのと一緒。晴れたらポイと捨てちゃう。お道の信仰は、いつも手を合わせる気持ちが大事なんだよ」とお説教されたと言う。母親を亡くしてから、その言葉が忘れられず、「困った時だけ教会に来たら、また母にお説教されそうで」と首をすくめて笑った。
 雨傘信仰。その言葉は何となく心から離れなかった。日々の生活の中で信仰するということは、どういうことなのだろうか。
 信仰することを、よく「信仰を持つ」と言う。「持つ」という言葉から、例えば、大事な商談を抱えて出張に行く人を想像してみた。資料を詰め込んだ重たい鞄(かばん)を持って出かける。行きの道中は、商談成功という目的があるので重い鞄も気にならない。しかし帰り道はどっと疲れも出て、重い鞄が邪魔になってくる。
 鞄を信仰に置き換えてみる。「たすけて下さい」と神様に願う時、「そのためなら何でもします」という気持ちになる。そこで信仰という鞄を持ち、「ひのきしんします。おたすけします。何でもします」と信仰実践の約束を詰め込む。必死な思いがあるから鞄の重さは気にならない。それどころか、もっと詰め込もうとする。ご守護を頂いた後も、しばらくは感謝の気持ちもあり、鞄は邪魔にならない。
 ところがご守護の感激も薄れ、何事もない日々が過ぎていくと、ふと、この鞄が邪魔に思えてくる。日常、歩くにも走るにも荷物になる。子供と手をつなぐこともできない。そんな時「ところで私はなぜこの鞄を持っているんだろう」と疑問が湧き、あっさり鞄を手放してしまう。必要な時だけ鞄を持つようであれば、信仰が人生の付属品のようになってしまう。
 一方、「信仰を心に治める」という言葉もある。良いことがあった時だけでなく、不都合なことが起こっても、「ありがたい」と手を合わせる信仰姿勢が浮かぶ。それは特に、信仰の年限を重ねた方に多く見られる。そんな方は信仰を持つというよりも、信仰が体に染(し)み込んでいるように思う。いつも「ハイ!」と明るく応える若者に「返事がいいね」と褒めると、「小さい頃から、返事だけは母から躾けられて、すっかり染み付きました」と言うのに似ている。
 信仰を飲み込んで体に入れるようなものかもしれない。それは体に染み込み、心に治まり、体の一部となり、生活そのものが信仰の日々となる。
 親神様のお働きなくして、仕事や家族の幸せ、つまり人生は成り立たないように、信仰と人生は別々のものではない。そう考えれば、お道の信仰は「いかに生きるべきか」という生き方を教えてくれているように思える。教祖の教えは、その問いに対する答えでもあるのではないだろうか。
 A子さんは娘さんを膝に座らせて言う。「毎日の生活で、娘の友達の親たちやパートの仲間とおつきあいをする中、時々、物事の善悪や判断の物差しが人に合わせるだけになって、つい、教祖の教えを後回しにしている自分に気づく時があるんです。こうして家族で教会に来ていると、『教祖だったらどうなさるだろう』と頭に浮かばせて頂けるように思うんです。この子が、将来、困った時だけ神様にお願いしようとしたら、母のように『雨傘信仰はだめ』ってお説教してあげます」と膝の上の娘の頭を撫でると、褒められたと思って、また嬉しそうに笑った。
 信仰が染み込むには時間もかかる。それは、代を重ねて、少しずつ心に治まっていくものかもしれない。
 A子さんは良い母親を持って幸せである。そしてこの小さな娘さんも、きっと幸せになるに違いない。

(加藤元一郎 『ウィズ・ユゥ』vol.27より)

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