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エッセイ

それぞれの風景 「私は、変わった。」

 過日、女子青年や若い母親たち10数名が、神名流しと路傍講演に行った。雪でも降るのかと思えるほどの寒さの中、天理王命の旗を掲げ元気に神名を流し、その後、スーパーの駐車場を借りて路傍講演。教会が定期的に路傍講演をしている場所なので、20人ほどの近所のお年寄りの人たちや買い物客が、足を止めて最後までつきあってくれた。約1時間、12人の弁士たちは熱く自分たちの思いを語り、聴いている人たちは、時に、頷(うなず)いたり拍手をしてくれた。
 しかし、彼女たちの話に一番拍手を送りたかったのは私自身かもしれない。それほど、彼女たちに教えられたような気がするのである。
 Mさんは大教会に女子青年として住み込んで半年。Mさんは言う。
「半年前であれば、ここで皆さんに話などできなかったと思います。私は人前で話すことも人の輪に入ることも苦手でした。友人の誘いも拒絶して、心は固く閉じて喜べない日々でした。でも、毎日、神様に手を合わせるうちに、私の後ろ向きの心が取れて、明るくなっていきました。私の暗い心の部分は、誰かに打ち明けたり趣味をして紛らわせられるものでもなければ、たとえカウンセリングのようなものを受けても変わらなかったと思います。その私の心を明るい向きに変えて下さったのは親神様です。私たち人間の親である神様だからこそ、明るくなるように、私に手をお貸し下さったのだと思います」。
 次にマイクを持ったYさんは仕事を持ちながら、時間をつくっては女子青年の活動に参加してくれている。普段、一生懸命な姿しか知らない私は、次の言葉に驚いた。
「私は宗教が嫌いでした。何より、私には必要ないと思っていました。お道の話を聞いても全く興味がありませんでした」と言うのである。しかし、その心が変わったと言う。「かつての職場での人間関係や数字ばかりを求める上司に悩み、そこを辞めました。しばらく何もせず過ごす日々。そんな時、教会や天理教の人たちの集まりに誘われて行くようになって、私は変わりました。天理教の人たちに触れ、『人はこんなに温かくてやさしいんだ』と思えるようになり、なぜこの人たちは温かくやさしいんだろうと考えたら、天理教の教えが、みんなの心に根付いているからなんだということに気が付きました」。
 1人ひとりの話に胸が熱くなったが、特に16歳で最年少のUさんには泣かされた。
 Uさんは中学2年生の頃から学校へ行かなくなり、家に引きこもるようになった。翌年、父親が突然亡くなり、高校受験も失敗すると、1人で外出することもできなくなった。そんな彼女を半年前から大教会で預かるようになった。彼女は小さい手でマイクを握り締めて話してくれた。
「私は引きこもりでした。それは人が信じられなかったからです。それが、毎日、教会でつとめ、神様のお話を聞いて、私は変わりました。天理教では、17歳になると別席というお話を聞いて、神様のご用をするようぼくになれます。あと1ヵ月で、私は17歳になります。今度は、かつての私のように悩んでいる人の役に立つ、そんな自分になりたいです」。
 彼女たちに共通していたのは「私は、変わった」ということであった。私は「にをいがけ」ということを考えさせられた。
 教祖は、難病をたすけて頂いたお礼をしたいと訪ねて来た人に対して、
「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」
とおっしゃった。
 にをいがけは、この教えのにをいをかけていくことである。彼女たちは教えやお道の人たちに触れ、固く閉ざされた心が開いたり、自分の心遣いを改めたりした。やがて気が付くと、お道の「にをい」が身に付いていた。
「にをい」は、自分に身に付いた分しか、相手に届かないのかもしれない。
 自分の「にをい」はどうだろうと思うと恥ずかしくなる。彼女たちが身に付けた「心のにをい」は、私の何倍も香(かぐわ)しい。スーパーの前に立ちっぱなしで聴いている人たちの目を潤ませた表情が、それを語っている。 

 最年少のUさんは、先日、誕生日を迎え、17歳になった。今、初席を運ぶために、嬉々としておぢば帰りの荷作りをする。その姿から、お道の良い「にをい」が漂っていた。

(加藤元一郎 『ウィズ・ユゥ』vol.26より)

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